黄庭堅「草書諸上座帖巻」/北京故宮博物院200選(3)

黄庭堅(こうていけん1045~1105)は中国北宋時代の書家、詩人、文学者です。

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●気韻生動を感じる書

東京国立博物館の「北京故宮博物院200選」に出品されている黄庭堅の「草書諸上座帖巻」(1099~1100頃)は、今回の展示で私が最も気韻生動を実感できた一級文物です。

気韻生動に関する説明は以下を参照してください。
李重煕「気韻生動と五方色」 
神品・清明上河図巻

自在な筆の動きは全くもって無理が無く自然で、意図して文字を書いているというよりは、宇宙のおおらかな律動に身を任せて筆を運んでいるようです。

この字はまるで優雅な踊りか一幅の抽象絵画です。

これを見た瞬間に心が躍るような思いにとらわれました。

文字の意味内容はもちろん・・・「わかりません」

「なんだ意味もわからず感動しているのか」といわれるかも知れませんが、そんなことはお構い無しで気持ちがいいのです。私の中の柔らかな部分に触れられたようで・・・。

そりゃ文字の意味がわかったらもっといいだろうとは思うものの、漢詩や草書の勉強をしてこなかったものですから、しょうがありません。でも、この字は造形や運筆を見ているだけでも気持ちがよくて、ふつふつとした喜びが湧いてくるのです。

それがすなわち気韻生動がもたらすものなのです。

「気」とは本来物理的なエネルギーで、気功術などで「気を感じる」ということは物理的なエネルギーを感じて体が健康になったりします。しかし芸術における気はもっと内的な情感に触れるものと言えます。

会場には「草書諸上座帖巻」を拡大した印刷物が掲示されていて、たとえ印刷物だったとしても見る者を惹き付ける力があるのですが、実物は印刷物とは比べようもなく、グッと胸の奥に迫る気を放っています。

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●「気韻」を妨げる「俗気」

黄庭堅という人をウィキペディアで見ると次のような紹介が出てきます。

「黄庭堅は草書をもっとも得意とした。若いときから草書が好きで、初め宋代の周越を師としたが、越に学んでから20年ほどの間は古人の用筆の妙を悟れず、俗気にとらわれてそれを脱することができなかった時期である。黄庭堅がもっとも苦しんだのがこの俗気を脱することであった。」

この中の「俗気」というものが、気韻生動とは相容れないエネルギーで、文字通り解釈すれば「世俗的な気」ですが、世の多くの芸術家はここにとらわれてしまっていると言っても過言ではありません。というよりも俗気にとらわれていることすら気づいていないのです。

一見上手な絵や書こそが俗気にまみれていることが多いようです。

上記の紹介文によると、黄庭堅は俗気から抜け出すのに20年かかりました。

俗気の説明は言葉では難しく、手がかりとしては、俗気から脱することを意識してきた黄庭堅のような文人や芸術家たちの作品を研究してみることだと思います。

また、世の中のことを知らない幼い子供は俗気にまみれていません。ピカソは「子供のような絵を描くために一生かかってしまった」と言ったそうな。
天才画家ピカソ「無垢へのあこがれ」

「俗気」から逃れ「気韻ー神気」を求めようとするのは、古来、世を治める王や士大夫そして儒学者などの文人たちの姿勢でした。

文人たちはたとえ俗世に住んでいたとしても、書や詩や画を為すことで、自らの中にある俗気を見出し、そこから脱することを意識して修練を重ねていったのではないでしょうか?

俗気を越えたところにあるのは素朴で清浄な世界です。

神聖な世界、仙人の住む世界・・・東洋の美術(芸術)が目指した境地は、清らかな霊性、そして気高い精神世界なのでしょう。

しかしそれは、仙人にならずとも誰もが本来魂の内に抱いている世界ですし、ゆえに誰もが実感し到達でき得る境地なのです。

すぐれた芸術はその手助けになると私は信じています。

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この記事へのコメント

  • はじめまして

    黄庭堅と俗気をキーワドに調べていましたら、こちらのブログにたどり着きました。ピカソと黄庭堅が重なり、そして知りたかった事が少し分かった気がしました。ありがとうございました。今後の更新、楽しみにしています。
    2018年02月05日 23:37

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