金圭泰評論/針生一郎「アニミズムの祝祭的ユートピア」

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―金圭泰(キム・キュテェ)個展によせてー


もう30数年前になるが、1977年と79年、わたしはサンパウロ・ビエンナーレの日本コミッショナーとして、それぞれ1カ月余同地に滞在したことがある。

そこで当然その年のビエンナーレにプラジル代表として招待され、あるいは招待されなかった多くの日系美術家をはじめ、サンパウロとその周辺に集中的に住む日系移民の各界有力者と知りあった。だが同時に、北米のニューヨークやロスアンゼルス、さらにカナダの主要都市と同様にここでも、韓国系移民が急ピッチで増大しており、やがて量だけでなく美術などの文化創造の質でも、日系移民をしのぎそうな勢いであることを見聞して印象に刻んだ。


ところで、ここでとりあげる金圭泰(キューテェ・キム)は、1952年韓国江原道に生まれ、ブラジルに渡ってサンパウロに住みついたのは、1984年というから、わたしがその地を訪れた1970年代末には、彼はまだ韓国にいたわけだ。

しかも、十代にして韓国東洋画の巨匠金玉振に師事して水墨画を学び、江原道美術展に三回入選して79年に特選となり、漢城美術院の講師をつとめ、84年韓国大賞展で銅賞を受賞してまもなく、32歳でブラジルに移住したのだから、韓国ですでにかなりのキャリアを経ている。


ちなみに、司馬江漢、北斎、広重から円山応拳、渡辺崋山まで、江戸期の日本の画家たちは、狩野派、浮世絵派、文人画風、洋風画と、意欲と必要に応じてさまざまの技法を自由にとりいれていたのに、明治初年の「文明開化」に対する反動として、明治10年代におこった国粋主義に乗じた岡倉天心やフェノロサが「日本画」の概念をつくりだす一方、洋画を仇敵視して両者を対極にひき裂こうとし、結局価値観の対立する二大派閥を形成した、経過全体にわたしは異論がある。

とりわけ、絹や紙に岩絵具で描いて膠で接着する絵画形式は、中国を源流として韓国、日本、タイ、ラオス、ヴェトナムと、東アジア全域に波及したもので、それを「日本画」とよぶのはこうした国際的関連をたち切って自国だけで占有する、増上慢の偕称にほかならない。だから中国では「国画」、韓国では「東洋画」とよばれ、美術学校には油画科と国画・東洋画科が並立するが、卒業後はおおむね個々の美術家のうちに両者が共存して、若いころ西欧に留学して油彩画を研究したものも、晩年はたいてい水墨・膠彩画に還って伝統と対決しながら、どこまで新風を開拓しえたかを確認する傾向を、わたしは日本の実情よりもはるかに健全だと考えている。

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プラジル移住後の金圭泰は、南米の風土に適応しながら、各国移民たちと交わって韓国の伝統を客観化するとともに、民族的アイデンティティを新しくとらえ直すことを要求されたにちがいない。

韓国で一定の実績を積んで移住しただけに、彼はすぐさまサンパウロ韓国人会の理事に選ばれ、同会主催で個展もひらいている。85年にはサンパウロで世界オリンピック文化展示の韓国館の企画責任者となり、87年にはサンパウロ中央美術院主催で個展をひらいた。その間、苦渋と試行錯誤にみちた作風の模索過程は、写真資料がとぼしく、作者自身多くを語らないのでうかがい知れない。

一説によれば、彼が現在の作風に達したのは、1992年にITU大学教授となって数年後、みずから講義する東洋画の精神を深く探求して、西洋的な「知」の粋をとりはずして行くと、夜半に描線が躍動し、原色が爆発してアニミズムの祝祭に似た空間が現出し、翌朝画室を見にきた妻と四人の子供たちに驚嘆と歓喜の拍手をあびたという。


金圭泰の近作写真を見てまず気づかれるのは、彼が朝鮮の「民画」とよばれるものを手がかりとしていることである。

大まかで力づよいその描線をいっそう単純化して、民画の装飾性をはるかにこえた抽象的構成を実現する。主題は民画そのままの山水と花鳥で、たまに畑を耕やす農夫や川に舟をうかべる漁夫の姿がみえるが、どの人物も鳥や魚と同様点景をこえる存在ではない。いや仔細に見ると、突兀とそびえる岩山は瀧や川を抱きかかえ、木々は枝をさしのべてあい擁し、鳥獣は花に遊び、野を走り、魚は水流に踊りあがる。

朝鮮民画を日本で最初に称揚したのは、民芸運動の創始者柳宗悦だが、柳は朝鮮半島の色彩の基調を植民地の悲しみをたたえた白に見たため、朝鮮は本来多彩な色彩感覚にみちていた、と何人もの朝鮮人から反論をあびた。

ブラジル移住後の金圭泰の大きな作風転換は、色彩が赤、青、黄などの原色の対照にみちた極彩色に一変したことである。だれしもこれは熱帯と亜熱帯を含むプラジルの自然に刺激されたと思うだろうが、実はプラジルの現代絵画にはそんなに原色が多くない。むしろ韓国で祝祭の日に女性がまとうチマチョゴリの原色や、易の思想に由来する黒、青、赤、白、黄の「五方色」の観念からみちびかれたというべきだろう。


「五方色」を含めて、金圭泰の山水花鳥画は、陰陽五行説の根本から自然をとらえ直したものだ、と作者みずから強調する。だが、朝鮮民画にはそうした易学や儒教の思想とならんで、ムーダン(巫子)によって伝えられたシャーマニズムやアニミズムの思想が色濃く底流する。

そういう眼で見れば、金圭泰の作品は「地球楽聞」「万世幸運」「永世図]「家族の愛」などの題名からも察せられるように、動物に仮託した家族愛を延長した、不老不死のユートピア、村上龍の小説のタイトルを借りれば、「希望の国へのエクソダス(脱出)」なのだ。

これほど日本の現実から遠いものはないから、金圭泰がすでに銀座のギャラリー美術世界をはじめ各地で、何度か個展をひらいて日本の人びとに注目され、作者自身日本を第三の故郷と感じているというのもよくわかる。



だが、わたしはその記事を読んで、2002年第4回韓国光州ビエンナーレを見たときの印象を思い出した。「コーリアン・ディスポラ」とされたそのメイン・セクションは、第二次大戦後シベリア、オーストラリア、ヨーロッパ、北米、南米などに、朝鮮半島から大量の人びとが流出した現状を概観する、時宜を得た好企画と思われた。だが、会場を実際に見た印象では、各地で活躍する朝鮮系美術家をアト・ランダムに網羅しただけで、居住地の風土、民情、伝統と相剋しながら、コーリアン・アイデンティをとらえ直すまでの葛藤があまり感じられなかったのが残念だった。

いま朝鮮半島は冷戦時代の遺物である分断国家が地球上に残る唯一の地であるだけに、南北統一を悲願とする韓国の人びとが民族主義を強調するのも当然だろう。だが、すでに南米各地から韓国系二世、三世がソウルなどの大学に少なからず留学する現在、彼らの民族主義もまた世界各地の生活のなかで変容したアイデンティティと表現を包括する、幅ひろく柔軟なものに変らなければならないと。わたしはすでに韓国でも在日の人びとにも語ってきたその要望を、ここで金圭泰の作品の受容のためにもくりかえしておきたい。

※針生一郎(美術評論家、美大教授、日本美術評論家連盟会長歴任)
※画像は金圭泰個展図録から


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